「表現の原動力」

「表現の原動力」                       


 古今の真の「芸術家」は例外なく自らを完全に「解体」し、無垢な眼差しと叡智に満ちた生命エネルギーを蔵している。

 自己解体の果てに時空を超え、名状しがたい空間と化した自我は異次元の漆黒の闇、混沌状態から表現衝動、灼熱の倫理ともいうべき心性が生じる。それを「自覚」した者は人間生存の本質が魂の裡に発光顕現するのを体験する。その内的体験を経ない限り外的現象は個人の魂を翻弄し、世の「地獄絵」を前にただ佇む事しか出来ない。誰もが「生存の根拠」を問い続けていけば必ず至り所有する意識であるが、全ての人がその道を歩き通すことは頗る困難である。ゆえに、再び

 
「芸術表現」の意味が別の次元で復活するのである。

 今日、我々は「抽象表現」という形式が生じた意味を徹底的に咀嚼、通過せねばならぬ。抽象表現とは相対的意識という偏見のない一視点、方法であり、無私・普遍的意識と同義である。此処からが本来のスタート地点でもある。だが、実体なき相対的意識が世界観と化すと無方向、虚無的世界観となる。この意識状態を打破せぬ限り魂は難破する。
 
 だが、今日においてもその抽象表現の原理を真に自覚している者は皆無に等しい。故に自覚に準じて「為しうる事を成す」という行為を創造精神を蔵した存在は日常のあらゆる流れの中に親和しつつ参入する。

 誰かが「時代が悲惨になればなるほど表現は抽象的になる。」と言った。
だが、本来我々個々人の内的自覚の問題であって世が平和であれ、乱世であれ、生存の危機に直面しないと生存への根源的問いが生じないとすれば、我々人類は今後も愚行をくり返すであろう。

 創造精神の意識を所有した魂は意識の深化拡大に準じて責任は重く厳しくなる。さらに言えば、ミクロコスモスとマクロコスモスとの融合へと至る道へと創造精神と即興精神が連動し、日常化しようとする。
 全ての人間の魂の裡には神性、仏性が宿り、眠っている。それを常にゆさぶり、刺激し続ける事。その表現手段は多種多様にある。一切の境界、限界も無い。ただ地道に黙々と歩むしかない。